取材日:2020/12/02
▽なぜ国際学部に入ったのですか?
私は、4,5歳の頃から英会話に通いはじめ、学校が終わったら英会話教室に行く生活をしていました。高校も公立の国際学部のある高校に進学し、学校にはネイティブの先生がいらっしゃって、国際学部のような国際的な授業を受けていました。
私は神戸出身で周りの人は、大学は関関同立(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学)を目指す生徒のほうが多く、東京に行く人はあまりいませんでした。ですが、私の両親は東京出身なこともあり東京の大学に進学する事を勧められ、様々な大学のオープンキャンパスに行きました。それと同時に、大学に行かなくても良いのではないかと感じていた私は、大きな大学になればなるほど、大教室で大人数で授業を受ける事が多いと気付き、「そもそも大学に興味がない人が入学したところで続けられるのか?」という不安がありました。
その中で、明治学院大学のオープンキャンパスに行った時、国際学部は少人数で授業を受ける事ができ、教授と学生の距離が近く、学生一人一人を見てくれる大学だと感じました。また、私は高校時代に何度か留学し、大学でも留学にも行きたいと思っていたので、留学をする人が多く姉妹校も多くある明学に進学を決めました。
▽学生時代はどのような活動をしていましたか?
明学にはテレビに出演されていたり、本を出版されている素晴らしい先生方がいるので、必須科目以外にも様々な授業をたくさん受けるようにしていました。5限まで学校にいることも普通で、東京から横浜キャンパスに通っていたため、7時くらいに授業が終わって8時半に帰ってくるような毎日でした。
将来の夢はというと、私の父親がファッションの仕事をしているという影響力が多くあり、私自身も「ファッションの仕事に必ず就きたい!」と幼い頃から決めていました。そのため、休学してファッション学校に行くのか、それとも周りと同じステップで卒業したいという思いを優先して、4年間で卒業できる姉妹校に留学するか、とても悩みました。
最終的に、色々な方に背中を押してもらい、1年で卒業できるニューヨークのファッション学校を探し出し、休学して1年間ファッション学校のFIT(Fashion Institute of Technology)のスタイリスト学科へ留学しました。

当時の撮影練習風景
誰も知り合いがいない、行った事もない土地、今まで勉強してきた自分の専門と全く違うファッション学校、など不安要素が多かったからこそ、ファッション学校では、雑誌のスタイリングや、撮影のインターンなどを数多く行いました。人より多く撮影を重ねて早く上達したい、ポートフォリオに経験を増やしたい、という気持ちで、毎日スーツケースにスタイリング撮影の洋服や撮影道具をたくさん詰めて学校に通い、週末も時間があれば撮影練習をするという日々を送った末、8か月で無事に卒業することができました。創った作品が受賞した時は、本当に嬉しかったです。
▽卒業してからどのように現在のキャリアに至りましたか?
私は、3年生の秋に帰国しました。周りの子たちは既に就活を始めていて、黒髪スーツで学校に来ていました。それにより、大きなプレッシャーを感じながら、日本の就活のスタイルには引っかかるものが自分の中にあったものの、ファッション関係のベンチャーや大手の企業を受けていました。大手の企業から内定を頂けましたが、そこに入社しても上に行くには時間が掛かり、自分のしたいことはすぐにはできないだろうと予想しました。
当時は、留学から日本に帰ってきたギャップや、「就職しなかったら、出遅れてしまう」という気持ちでいっぱいである一方、せっかくニューヨークに留学したのに、レールが引かれた就職をしたら自分が満足をしないだろうという考えから、1回全てをリセットするために就活を辞めました。
そこで改めて自分と向き合い、来年だけではなく、3年後、5年後、では10年後はどこでどのような仕事がしたいのかと考えたときに、「やっぱり海外で、ファッション業界で働きたい。」という思いが強い事に気付き、就活を再開して、ベンチャーのスタートアップの会社に就職する事にしました。
仕事の内容は、海外出張も多く、バイイングやブランディングなどのビジネス系のファッションの仕事でした。当時は毎日忙しかったけれど仕事が楽しく、ファッションのビジネス方面の仕事は面白いなと思い始めたのもこの頃でした。
その一方、この会社に23歳の4月に入社した同年の12月にアメリカ人の方と結婚することになりしました。パーソナルな事をあまり話していなかったので、社内の方々には驚かれたのですが、ようやく慣れて楽しめるようになった仕事を辞めることに迷いもありながらも、一度辞める決断をしました。
結婚後、ニューヨークで仕事をしていた夫と話し合い、夫の出身のワシントンD.C.に引っ越す事になりました。ビザの手続きをして24歳でアメリカに引っ越し、今(取材日:2020年)は5年目になります。ワシントンD.C.へ移動後も、ビジネス方面でファッションに関わりたいという思いから、ファッション業界にてコンサルの仕事に就くことができました。この仕事では、実際に服を手に取ることはないのですが、アメリカに進出したい日本のクライアントさんとのやりとりや、ニューヨークの商品を日本に取り入れたいバイヤーさんやデザイナーさんのお手伝いをしていました。そして、現在は、本社をロサンゼルスとするE-commerceのファッション会社に、4年前からリモートにて、マーケティング・コンサルとして働いています。パートナーがインターナショナルなため、イベントやカンファレンスなどで、アメリカ国内、またヨーロッパなど様々な所に出張する事もあります。
▽キャリアを積んでいく中で大変なことはありましたか?
4年前にリモートで仕事を始めた時は、対面で会う事ができないので、信頼を築く事を難しく感じました。また、自分自身以外の社員の方はほとんどアメリカ人なので、「自分は外国人なんだ。」と強く感じる機会も多くありました。そのほかにも、私は「ビジネスは自分に向いていないのかもしれない。」と思うこともあったりで、ファッションを辞めて他の業界でのコンサルやマーケティングなどの仕事もを考えてみましたが、やはり「自分の好きな事でなければ続けられない、自分の好きな事にずっと関わっていたい!」と思い、ファッション業界に残る事を決心し、今もファッションに携わる仕事をしています。

現在生活しているワシントンD.C.
環境では、やはり渡米して変わったことがたくさんで、初めての土地で知り合いがいない中、リモートのため、自分で環境を広げるのは難しく、そのため、友達をつくる機会も少なく、日本に帰りたいとずっと思ってしまうほどでした。今振り返れば、一番悩んでいた時期だったのではないでしょうか。今では、そのことが嘘だったかのように環境にも周りの人にも恵まれ、ワシントンD.C.から引っ越したくないほど充実しています。
▽社会人になるための覚悟とは?
私は、就活や社会人になる事が全てだと思っていて、1回就職したらそこで人生の全てが決まるのだと思っていました。今思えば、「社会人」というものに重きを置きすぎていたように思います。
周りが就活に追われる中、いったん自分の就活を見直した事は良かったと思っています。就活が全てではないので、10年後、20年後、30年後の自分がどうしていたいか、大きな視野でみる事が大切だと思います。
▽あなたにとっての国際学部とは?
私の人生の中で、国際学部に入学したことは、とても大きく、今の自分にたくさん繋がっています。「人と違う事をやる事は、社会人になってからマイナスになるのではないか?」と心配していましたが、国際学部では、個性や新しいチャレンジを評価してくれる環境があり、みんな自由で、「普通」の人がいないので(笑)、個性的に生きていていいんだなと思えるようになったきっかけが国際学部でした。
地元を出て、大学に通った4年間が今までの中で一番楽しかったです。国際学部は4年間戸塚のキャンパスに通うので、友達との仲は深くなり、常に友達と過ごしていました。大学時代の友達とは、今でもとても仲良くしています。
▽在学生へのメッセージ
大学は楽しく、時間があっという間に過ぎてしまうので、毎日楽しんでほしいです。大学生のうちは自由がきくので、趣味を見つけたり、本をたくさん読んだりしてください。自分の好きなものを1つ見つける事は、自分の将来に繋がっていくと思います。
〇山田柊子
1992年生まれ。2010年に明治学院大学国際学部国際学科に入学し、Gillゼミに所属。学部時代1年間休学し、ニューヨークのファッション学校、FITのスタイリスト学科へ留学。
卒業後、新卒でファッション系のベンチャー企業に就職し、その年にアメリカ人の夫と結婚し退職。アメリカのワシントンD.C.に移住。現在、ファッションのコンサル・マーケティングとして、会社italist Inc.に務める。