タイ王室の歴史と今【前編】

取材日:2021/3/10

重冨真一先生に、タイ国内での王室に関する動きについてお話を伺いました。

重冨先生の研究内容紹介はこちら>>「【研究内容紹介】重冨真一先生

▽今タイで起きていること

 今タイでどんなことが起きているか知っていますか?

学生ライター:タイの国王があまりタイにいない状況が続いていて、若い方が抗議運動を行っているというニュースを見かけました。

 そうですね。タイでは、2014年に軍がクーデタを起こして、軍事政権になりました。そして、2019年に行われた選挙で、クーデタを起こしたプラユット・チャンオーチャー(1954-)が当選し、現在も首相を務めています。

 ですが、その選挙は当時の政権が有利になるよう仕組まれたものだったので、不当な感じが拭えないわけです。その中で、新しい政党(新未来党)を作った、タナートーン・ジュンルンルアンキット(1978-)がかなりの議席を取りました。彼は若く、その主張も新鮮だったので、若者からの人気があったのです。

 しかし、重箱の隅をつつくような理由でタナートーンが失格となり、その政党も解散となってしまいました。若者からしたら、自分たちの意見が潰されたという不満があった中で起きている事なんです。

▽王室批判の展開

 最初は政府に対して、憲法改正とか、議会を解散して公平な選挙を求める声が上がっていました。それがある時、集会の中で、王室改革を進めるべきだという意見が出たのです。

 タイは日本と同じ立憲君主制ですので、国王が政治的な権力を持つことは憲法によって制限されています。ですが、現在のラーマ10世王は、憲法草案の修正を求めたり、近衛兵の配属を変えたりと、立憲君主制の枠組みからは逸脱するような行動があって、批判が高まってきていました。

 それまでのタイであれば、王室の批判を少ししただけで逮捕されました。タイには刑法の中に不敬罪がありまして、3年から15年の禁固刑が科せられます。ですので、王室批判はタブーであったわけです。

 不敬行為を報道すれば、その報道自体も不敬罪にあたります。そのため、不敬罪の有無が報道されることはあっても、中身までは報道されてきませんでした。

 それが今は、訴えのおおまかな項目が新聞などでも報道されるようになりましたし、ソーシャルメディアがあるために、集会での発言なども多くの国民が共有してしまうわけです。タイの歴史上初めての事が起きている状況です。単に政府批判のデモがあるとか、若者が抗議運動しているというだけではなくて、タイを揺るがす大きな出来事だと言えると思います。

▽タイ国民と王室

タイ人の王室に対する考え方や姿勢に触れた経験はありますか?

学生ライター:タイを訪れた時、お店には国王の肖像画が飾られていて、それだけ強く尊敬というか、敬っているという印象を受けました。

 そうだね。タイでは国王のエピソードをよく聞きます。

 先日、重冨ゼミでは、タイ校外実習をオンライン上で行いました。その時に酪農の村を訪問したのですが、「酪農をやりなさい」と勧めたのは、前の国王(ラーマ9世)だったそうです。その後政府の支援もあって、酪農を始めた人たちは現金収入が入るようになり、その子どもたちは上の学校に進学できるようになりました。

 バンコク付近のあるコミュニティを訪問したときにも国王の話がでました。そのコミュニティは、運河が水草などで汚れ困っていました。政府に願い出ても、相手にされなかったそうです。ですが、国王の指示で創設されたNGO団体に相談すると、軍に働きかけてくれて、運河を浚渫するのに必要な土木機械を貸してくれたそうです。

 また運河近辺の土地は、王族が囲い込んで私的所有地にしたエリアだったので、農民はそこの土地で小作人として働いていました。ですが、ラーマ9世王は土地を農地改革地として提供したので、農民は無償で土地を得たそうです。

▽王室に対して募る不満

 こういった話はたくさんあるので、普通の外国人であれば、「タイ人は王室を非常に敬っている」というイメージが強いと思います。

 ところが、もう少し踏み込んでみると、それだけではない事が分かります。王室が権威や尊厳を高めた一方で、自由に物事を言えない環境は強くなったので、それに対する不満が水面下にはあったのです。

 ひとつ卑近な例を挙げましょうか。バンコクではよく交通渋滞が起こりますが、原因としてよくあげられるのは、1つ目は雨が降った影響(洪水)。2つ目は交通事故。そして3つ目に「王室の方が通る」です。

 タイの公共交通機関はあまり発達していないので、バンコクの交通渋滞は凄まじい。そこで王室の方が移動する時は、交通規制をします。ただでさえひどい交通渋滞が、さらに悪化します。人々の身近な場所でも、不満は起こりうるわけです。

▽タイ王室の歴史

 タイの王室を歴史的に見ると、1932年までは絶対王政でした。国王が全てを決める仕組みです。「王様と私」(1956)という映画を見たことはありますか?ラーマ4世王の様子が描かれていて、色々な事を独断で決め、命令をよく出しています。それにすぐに納得しないアンナ・リオノウエンズという英語教師が、王様に反発したり、妥協したり、協力したりと、その中で、王様と心が通うみたいな(笑)ミュージカルなんですが、王様が全て自分で決めるという世界が描かれています。

 そんな絶対王政がなぜ終わりを迎えたかというと、国の近代化のためにヨーロッパへ派遣され戻ってきた人たちがクーデタを起こしたからです。若い将校や官僚達は、向こうで自由主義や民主主義など新しい思想を学びました。そこで振り返った時に、「我がタイはなんて遅れているんだろう。母国が発展しないのは、絶対君主制のせいだ!民主化しないといけない」と考えて、クーデタを起こしました。国王が全て決めるのではなく、王も憲法に従うという形に変えようとしたのです。これを「立憲革命」と呼びます。

 その時国王は、フアヒンという南の方で保養していたのですが、連絡を受けた時には、軍の重要な部分は抑えられていたので、彼らに嫌々従って、タイの政体は絶対王政から立憲君主制に変わりました。

 その後王室の権威はどんどん下がっていきました。それで民主主義が実現したかと言うとそうではなく、革命を起こした人たちは自分たちの権力を守ろうとしましたし、最後はその中のピブーン(本名はプレーク・ピブンソンクラーム、1897-1964)という軍人が権力を握り、軍事政権になってしまいました。

 こうした事態に対しラーマ7世王は、「民主化すると言うから、憲法の下に入ることを容認したのに、お前らがやっている政治は民主主義ではない。それだったら国王を辞めてやる!」と、脅しをかけたわけです。ですが、政権を握っていた人達に、「どうぞ」と(笑)。それで国王は辞めざるを得なかったんです。

 次に即位したラーマ8世はまだ9歳の少年でした。その後、彼は1946年に王宮内で銃で謎の死を遂げます。次に即位したのは8世王の弟である、ラーマ9世王でした。当時、18歳です。とても若い時に即位したため、ほとんど力はありませんでした。

 ところが、政権側に変化が起きます。ピブーンの下にいたサリット・タナラット(1908‐1963)という人がクーデタを起こして、ピブーン政権を倒したのです。

 彼は軍をバックに独裁的な政治をするのですが、同時に王室との関係を180度転換しました。彼は武力で政権を握ったので、その意味では正当性はありません。そこで、国王とそのお后様に国内外、津々浦々訪問していただき、再び王室の権威を高めようとしたのです。王室への尊敬が高まれば、それを支えている自分への評価も高まると考えたのでしょう。

 これは王室にとっても、良いチャンスですよね。昔のような絶対王政には戻れないけれど、王室の威厳や権威を回復する絶好の機会なわけです。実際にラーマ9世がそれをどこまで意識していたかは分かりません。ですが、その後、実際に、国王に対する人々の尊敬の念はどんどん上がっていきました。

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