▽現在の研究分野は何ですか?
16世紀から18世紀の、いわゆる近世のハンガリーを中心とした歴史を研究しています。一番小さく言うとハンガリー史だけれども、ハンガリー史だけではなく、ハンガリーが含まれている東ヨーロッパ史、東ヨーロッパが含まれているヨーロッパ史まで研究しています。また、ハンガリーを含む東ヨーロッパ地域の近世史は、オスマン帝国に支配されていた時代でもあるので、バルカン半島や、今でいうトルコ、アナトリア半島など、イスラム圏にもある程度関心があります。
▽この研究分野を志した理由は何ですか?
高校になると受験のために、社会科目の中から2科目を選ばなければいけなくて、世界史、歴史が好きだなと感じたことがきっかけでした。それまでは歴史も好きでしたが、歴史学よりもっと古いことをやっている考古学だとか、もっと古い、サル学(霊長類研究の一種)とかの形質人類学も好きだったので、広い意味の大きな歴史が好きでした。ただ、古い歴史だと理科系の学問の領域になり、例えば、掘った骨が何千年前で、どんなDNAが入っているかっていう話になってしまうものもあります。かつて考古学は、遺跡を発掘したり、古文書を読んだりだとかが主な研究だったのですが、今はもう科学的なものが考古学になってきています。今だと仁徳天皇陵(大阪府堺市にある古墳)の遺跡発掘なども、科学的な手法でいろいろなことを調べるのが主流になっていると思います。
子供の頃から、歴史関係の本を読んだり、テレビを見ていたりはしてました。全然科学的じゃない古代文明や、宇宙人がやって来てこの文明を作ったんじゃないかっていうぐらいのものも含めて、その様な本を読んだりはしていたので、ずっと歴史は好きだとは感じていました。
様々な歴史の中で世界史を選んだ理由は、受験で社会科で2科目選ばなければいけなかったので、何にするかを考えて、世界史にしました。大きくは、日本史と世界史、どっちに進むかを選ばなければならなかったのですが、僕が行っていた高校は、たまたま3年間世界史を必修としていた高校だったのです。ずっと世界史をやってたということに加えて、旅行したり、外に出ていくことが好きだったので、日本史で国内に留まっているというよりは、外に出て行くという様なことに関係する世界史の方が面白いと思い、世界史を選びました。
▽学生時代はどんな学生でしたか?
大学は小さな大学で、都心から離れたところにあったので、少し隔離された感じでした。大学の仲間はそれなりに面白い人間もいて、多くは大学の周辺に下宿していたので、街に出て、コンパやディスコに行って呑み明かすといったことはほぼなく、だれかの部屋に行って集まって、料理作って飲んでってのが多かったです。また、英語であれば、明学の専門外国語の授業の様に、集中的に課題が出たり、英語ができないとわからない授業が多くあったので、お互い助け合わないとやっていけませんでした。自然とつながりが深まって行く雰囲気がありましたね。
さらに、その中で、各々のやりたいことや目標などを明確に持っている学生が多かったので、世界中に散っていったり、留学したりする人間が多い環境でした。自然とそれに触発され、大学に入った頃からヨーロッパ史をやりたいとか、ヨーロッパに行きたいとかは、1年生の頃から言っていました。韓国が好きな友人は韓国に行き、アメリカに興味がある人はアメリカにという具合で、お互いの了解みたいなものが出来上がっていたので、周りの友人は僕がヨーロッパ史を研究するとか、ヨーロッパに行きたがっている事は知ってましたね。
▽大学生の頃から研究職は目指してましたか?
早い時期から研究職に就きたいと言っていましたね。中学3年生の時、進路調査の様なものがあり、僕の家は農家だったので、ずっと子供の頃から、サラリーマンには向いてないと思っていましたし、ラッシュアワーや、上の人に仕事をもらったり、真面目に何かするってことは苦痛だと思っていたので、何だか自由そうな研究者になりたいと思い、「大学教授」を第1志望に書いて、第2志望は「農業」と書いて出しました。すると、僕がふざけて書いていると思い、怒った先生から呼び出しがかかり、書いた理由を詳しく聞かれました。少なくとも中学生ぐらいからは、研究者、大学の教員になりたいと思っていたということです。しかし、それがどれくらい大変なのか、実現可能性とかは全く想定していませんでした。
高校に行っても研究者の夢は変わらずに持っていたので、父親は、「そんなのなれる訳ない」「そんな高嶺の花なんかにちょっとぐらい努力したからって、なれる訳ないじゃない」と言われて、反対されました。確かに、大学に入ることが出来て、歴史の研究を始め、留学・大学院進学と、少しずつ夢に近づいていきましたが、大学の教員はなりたいと思ってなれるものではありません。教員免許や弁護士の様な資格ではなく、論文を書いて、研究報告したり、書いた本などが認められて初めてなれるものです。書いた論文や本を示して、大学などの研究機関の公募に応募して、それに通ることで、初めて研究者として、働ける様になります。半分は、運頼りなところがあるので、いくら優秀であっても、縁がないとなかなかなれないものです。ある意味では不安定なままずっと過ごしていました。僕の時代は、30代後半で就職できれば良い方だったので、大学を卒業して約10年は、アルバイトをしたりだとか、不安定な生活を強いられました。それでも研究者になれない可能性もありました。そうなれば、30代後半で無職、加えて独身といった可能性もあるので、そういう不安を両天秤にかけて生きてゆかなければなりませんでした。苦痛でもあり、将来に対する不安もありましたが、一方で研究旅行などで人に巡り合うなど、楽しみもあったので、そういうバランスの中で、大学の学部から大学院の時期を過ごしていました。
▽学生の間に読むべきオススメの1冊を教えてください。
僕は高校まで小説とか、あまり読んできた方ではなかったので、これといってないんですが、ハンガリー史・東欧史における良い入り口、取っ掛かりになるのではないかという意味でのお勧めが2冊あります。
1冊目は小説で、アゴタ・クリシュトフ(1935年〜2011年)著の『悪童日記』という本です。3部作のうちの最初の本で、3部作の中でも1番面白かったです。作者のアゴタ・クリシュトフはどういう人かというと、元々はハンガリー人でしたが、スイスに亡命して、国籍上はスイス人になった人です。だから厳密にいうとハンガリー系スイス人なんですが民族的に言うとハンガリー人の女性です。フランス語圏のスイスに亡命したので、亡命した後にフランス語を学び、工場等で働いたりしてスイスで結婚しましたが、何年か経ってフランス語がある程度上手になった後に、この小説を書きました。
内容は、国境近くで祖母と暮らす双子が主人公で、彼らがどうなってゆくかという、おとぎ話のような、とても現実とは思えないような世界が展開していきます。彼女が亡命した時代は、まだ、「鉄のカーテン」(冷戦期にヨーロッパが東西に別れていたことを表す比喩。シュテッティンからトリエステを基準としている)があった時代なので、国境の向こうには簡単には行けない世界があり、そういう前提の生活をしていたっていうことと、全体的に幻想的な世界観で覆われていて、魔女の様な老婆と、それこそ双子という意味深な感じの登場人物が配され、双子の片方だけがその国境を越えて行くという話なんです。ハンガリーが幻想的な世界だということを伝えたいのではなく、東ヨーロッパの世界は、分かりやすい西ヨーロッパの世界に比べて、少し複雑で、土着的なものを残していたり、人にあまり知られていないというところもあるので、ハンガリーという世界の一面は的確に表現されていると思うので、お勧めです。もし東ヨーロッパの社会などに興味があるのならば、面白い小説なので読んでみて欲しいです。
もう1つは、ヴィクトール・フランクル(1905年1997年)著の『夜と霧』です。『悪童日記』で書かれているような、現実なのか現実じゃないのか判らないようなミステリアスな世界とは対照的に、現実的な世界観を持つ本です。どう現実的かというと、この『夜と霧』は、アウシュビッツなどで生き残った著者がどんな体験をしたのかという極めて現実的で、過酷な現実を見せる本です。さらに著者は心理学者だったので、淡々とした文体で、まるで実験内容を伝えるかのように書き進めるのです。「こんなにひどい目にあいました」と書いているのではなく、自分もユダヤ人で、囚人だったのにも関わらず、「こういう時に人はどういう風になってしまう」という形で、冷めた目で捉えています。
対照的な2つの本を挙げましたが、『悪童日記』は、幻想的でミステリアスで面白く、どんな世界なんだろうと少しワクワクするような、ドロドロとした側面もありますが、そういった側面もハンガリーの一面です。しかし、東欧の過去の歴史のもう一つの面はすごく過酷な歴史であり、アウシュビッツなどに代表されるユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)などといった現実も東ヨーロッパの歴史の一部なので、こういう対照的な2冊の本を挙げておきたいと思います。
(取材日:2018/11/27)
〇戸谷 浩(とや ひろし)国際学科教授
東欧史、特にハンガリー近世史(オスマン支配下(16~17世紀)のハンガリー社会)
国際基督教大学比較文化研究科博士後期課程修了。学術博士。明治学院大学一般教育部専任講師を経て、2007年から明治学院大学国際学部国際学科教授。
著書・訳書に『ブダペシュトを引き剥がす--深層のハンガリー史へ』や『ハプスブルク軍政国境の社会史――自由農民にして兵士――』など。