取材日:2019年10月14日
▽明治学院大学に入学したきっかけは何ですか?
子どもの頃から、南北問題にとても興味があって、将来はそれに関連する職業に就きたいと思っていました。そのために、大学受験の時は、国際政治学や国際関係論を勉強できる大学を探していました。当時は、「国際」という言葉がないと南北問題などの分野を勉強できないと思っていたので、その言葉が付く学部を中心に受験しました。しかし、当時の私でも名前を聞いたことがある著名な先生方が、明治学院大学の国際学部に着任されると知り、ここで勉強したいと思うようになりました。
▽南北問題に関心を持ったきっかけは何ですか?
私の中学生時代は、毎日のようにテレビでインドシナ難民が日本に辿り着いたと報道されていたり、24時間テレビなどで貧困の問題などがよく放送されていたため、南北問題に関心を持つようになりました。
また、私は静岡の地方出身で閉鎖的な社会で育ったため、逆に異文化に興味を持っていました。中学生の時にはアメリカやオーストリア、香港の人たちと海外文通をしたり、町内の寺に世界から座禅を組む合宿(?)に来ている人たちがいると聞けば、当時属していた陸上部の自主練と称して、部活の時間に山の中にあるお寺まで走って行って、休憩時間の外国人修行者と片言の英語でコミュニケーションをとって一喜一憂していました。
高校時代にはフィリピンの山岳で活動をしている日本人シスターのところへ行く機会があったのですが、そこでそれまで報道で見聞きしていた貧困を目のあたりにしましたし、フィリピン社会の中での「格差」にもショックを受けました。そうしたこともあり、以前にも増して何か貧困解決の力になりたいと思うようになりました。
▽これまでのキャリアを教えてください。
明治学院大学卒業後は、神奈川県の第三セクターである「公益財団法人かながわ国際交流財団」という所に四半世紀勤めていました。入職当時は神奈川県国際交流協会といったのですが、学術文化交流事業を行う財団と統合したことで名前が変わりました。その財団を2019年3月に退職し、4月から明治学院大学のボランティアセンターで働いています。
「公益財団法人かながわ国際交流財団」に勤務していた26年間で、自治体における国際交流は大きく変化していきました。私が入った時代は、姉妹都市などとの「海外交流」と、地域に暮らす外国人に注目した「内なる国際化」(今の「多文化共生」)の2点がメインでした。
私も海外との交流活動などをしていましたが、徐々に行政が先陣を切って活動をするのではなく、年々増加しているボランティアやNPO、NGO団体などの活動をバックアップしていくことが多くなり、活動への助成や、場や情報の提供、マッチングといった中間支援組織的な傾向が強くなっていきました。もちろん中間支援的傾向が強まりつつも、同時に海外からの技術研修員のお世話をする施設や、留学生の宿舎などでも働き、直接留学生や研修員と関わる仕事にも携わることはしてきました。
その後、「多文化共生」がよく言われるようになり、どこの自治体の国際交流協会も活動の中心は「多文化共生」にシフトしてきました。私の仕事も外国にルーツのある子どもたちを支援する団体に対する助成や啓発的なワークショップなどの開催などもするようになりました。同時期に、神奈川県が設置した本郷台駅前にあるあーすぷらざ(県立地球市民かながわプラザ)の運営などを受託しました。あーすぷらざは元々は「子ども館・平和館」として構想され、当時明治学院大学国際学部教授であった坂本義和先生が構想委員会の座長でもありましたが、構造的暴力の問題や異文化理解などを考え、地球市民意識の醸成を目的とした大きな博物館のような施設です。ここでは、国際理解を育んでいくために市民向けの講座を行ったり、校外学習などの小中高の生徒を受け入れたりしました。ぜひ、明学生の皆さんにも行っていただきたいです。(明治学院大学南門のバス停から10分以内で着きます)。その時期には、県内に歴史的な経緯で暮らす様々な民族団体の人たちと共に企画をし、広く多文化共生社会について考えるイベント「あーすフェスタかながわ」の事務局も担当するなど、一気に国際協力のN G O等から外国籍の人たちとのつながりが一気に増え、そのネットワークは今も続いています。
また、葉山の湘南国際村にもかながわ国際交流財団の事務所があり、そこに勤務した時には、高校生向けの授業づくりの協力や大学生向けのセミナー、美術館、博物館関係者などを対象にした大規模なフォーラムである「ミュージアムサミット」の担当もしました。これは当初はルーブル美術館をはじめとした世界の館長による「サミット」で、東京の日経ホールと湘南国際村にて開催していましたが、私が担当していた終盤期には、美術館を越えて、地域の芸術祭や、震災後の東北の美術館での取り組み事例の紹介や、教育普及など、「地域」を意識した内容へと変化させました。
▽財団で働こうと思った経緯を教えてください。
先ほども述べましたが、私は閉鎖的な田舎で育ったので、その反動から異文化に興味を持ちました。それに加え、フィリピンの貧困や難民などの課題を、メディアを通して知る事で、南北問題に関心を持つようになりました。それらに興味関心を強く持ち大学に入学し、活動していく中で、漠然と国連などの国際機関で働きたいと思いました。
しかし、大学院生時代に調査で訪れたフィリピン大学でストリートチルドレンに関わる様々なNGOや活動家の方々と知り合う中で、自分は最前線で活動するよりも、社会課題を自分たちの課題として結び付ける仕事がしたいんだと考えました。そのため、国連よりローカルな活動をするために、自治体で働く事にしました。当時、神奈川県は全国で初めて「国際交流協会」を作るなど、先進的な取組を行っており、私はここで、地域と世界を繋ぐような仕事をしたいと考えました。
▽明治学院大学のボランティアセンターで働くことになった理由は何ですか?
今はどこの自治体も「多文化共生」をとても重要視しています。今年(2019年)は入管法も改正されたため、より一層多文化共生の重要性は増すと思います。私が国際学部で学んでいた分野は、前の職場では当初はマッチしていたのですが、それが財政事情をはじめ、様々な理由から、徐々に「集中と選択」で活動の分野が狭くなってしまいました。そのため、間口を広くしたいと思うようになっているところに、明治学院大学のボランティアコーディネーター公募を知り、応募をしました。
▽国際学部の魅力は何ですか。
学際的なところが魅力だと思います。様々な分野を学ぶ事で、自分の考え方や見方を様々な視点から見て深める事ができますよね。また、国際学部は「平和」がベースに成り立っているところも魅力だと思います。何か社会課題があって、それを解決するには、自分がどのようなモノサシで分析していくのかが大事です。そこで、国際学部の「平和」をベースとした学問分野を超えた学びが活きてくると思います。しかし、幅広く多角的な視点を持つことができる一方で、「広く浅く」にならないように気を付けなければいけません。
▽学部生時代はどういったゼミやサークルに所属していましたか。
今の学生は、2年生の秋学期からゼミが始まると思いますが、当時3年生からでした。私は江橋正彦先生という元々JETROにいらした先生の下で、フィリピンや東南アジアの地域研究をしていました。
既存のサークルには所属していなかったのですが、大学1年の頃から、フィリピンのネグロス島で発生した飢餓を救うためのチャリティコンサートを開催するための有志の活動を行っていました。ネグロス島は、サトウキビのプランテーション栽培が行われていて、モノカルチャー経済でした。そのため、砂糖の国際価格が暴落して売れなくなると、賃金の未払いや解雇が生じ、農民は貧困や飢餓に陥りました。その時、NGO団体が東京を中心に飢餓を救うためのチャリティコンサートを開催しました。そして、明学でもそのコンサートを開こうという話が持ち上がり、その中心メンバーとして参加しました。その年以降も継続し、南北問題に関したシンポジウムを開くようになり、計4年間続きました。
また、当時から横浜の寿町には円高のために出稼ぎに来るフィリピン人労働者が多くいました。日本人の方々は自分たちの職がなくなる事を懸念し、フィリピン人の方々とよく揉めていました。悪質な場合だと、フィリピン人労働者からパスポートを取り上げる、労災も手続きをしないなどの問題がありました。これを受けて、労働者間の連帯を支援する活動ができ、私もそこへボランティアで行ったりしました。
▽在学生に伝えたいことはありますか?
私の学生時代もそうだったのですが、「鵜呑みにしない」事が重要だと思います。先生が言ったからとか、ネットに書いてあるからとかではなく、一度情報を疑う必要があると思います。インターネットで調べる時は、自分が欲しい記事を直接探すので、その時点で既に情報を選択していますよね。新聞で見れば、関連する事柄が周りに書かれていたり、本屋に行けば周りの本によって、他の視点があることに気付けたりします。つまり、情報を鵜呑みにしないために、物事を俯瞰して見ることが重要だと思います。
また、せっかく学生なので、自分の学んでいる事と社会を繋いだり、大学の外に出て社会の課題を見たりしてほしいなと思います。