以上の8つの節は、平均的大学入学者の論述能力と、大学が求めるそれとの落差を埋めるために、もっとも必要な具体的スキルを説明したものである。大学でのレポート指導の経験に照らし、今日の日本の大学一年生のレポートを、最短距離でなんとか形にする方法を、演習をまじえて14~15回ほどの授業で伝えられる情報量に収めることを心がけた。もちろん論証も叙述も、ここまでできれば満足という線引きのない、際限ないテーマである。だが、このハンドブックをひととおり理解した大学生は、さらに高いゴールを目ざす意欲と、自学自習の方法を身につけたことだろう。
「はじめに」で伝えた3つの助言に加えるべき、4つめの助言でこのハンドブックを結びたい。
スキルと割り切って論文書法を学ぶことが、大学生にとっていかに役だつかは、十分に伝えたつもりだが、それを特効薬のようなものと捉えてはならない。
ここで教えたスキルが有益であることは、添削指導にあたる教員の手ごたえからも履修者への調査からも明らかである。問いにはじまる論証の基本的な組みたてや、論点ごとに段落をまとめる構成法、引用とパラフレーズの使い分け、典拠表示の作法、情報検索のしかたなど、スキルとして具体的に知っておくべきことはじつに多い。むしろ、なぜこうしたことをこれまではっきり教えてこなかったのかこそ、不思議に思える。
だが、論文書法教育は「書けない」という症状に向けた治療薬にすぎないということも、あえて指摘しなければならない。学習者が知的なスタミナを蓄えるには学問的な文献を多読し、精読するほかない。俳句を見たことのないひとに五七五や季語というコンセプトをどれほど教えても真っ当な俳句は詠めない。レポート・論文も同じである。
大学教員の経験から言えることだが、書けない学生が増えたことは、読まない学生が増えたとことと明らかに関連する。もちろん読まない学生が増えたのは、ひとりひとりの知的能力が下がったからではなく、おそらくは若者をめぐる大きな環境の変化による。とはいえ学費は払うが難しい本は読みたくないと言うなら、それは倒錯である。スキルに目を奪われ、書物に息づく学問を忘れてはならない。論文書法教育への注目には、こうした意味で大学教員にとって釈然としない部分がある。この種の科目が必要になったという事実が、大学らしい講義を楽しめない学生が増えたことと表裏一体であるということは、率直に指摘しなければならない。
レポートには書き方があり、そこには学問的な理由がある。書き方マニュアルにすぎないこのハンドブックからも、時代を超えてゆるがない学問のすがたは読みとれたはずである。論文は、知識が検証され、学問が産みだされる現場である。「論証」と「帰責」という論文書法の二本柱は、人類が知識を吟味し、世代を超えて蓄えることに成功した、ふたつの秘訣にほかならない。
本書を通読した学生の大半は、それなりに苦しみっつも、自力である程度のレポートが書けるようになったことだろう。論文の書きかたを理解した者は、読み手としても確実に成長しているはずである。しっかりした論証のあるレポートが書けることは、それだけでも十分すばらしい。しかしスキルの向こう側にあるさらに価値のあるものに触れないなら、それは苦労への報酬をなかば以上捨てるに等しいのである。