論証と帰責こそレポートの本質的なスキルだが、そうしたスキル以前に、誰に向け、どのような文体で書くか、という問題についても、いくつか約束ごとがある。
レポート・論文では基本的に「である調」を用いる。
第一に、論文で使うような表現や術語に、「である調」がなじむからである。である調を使わずに読みやすい論文を書くのは、名人芸と言える。
第二の理由は、「である調」が書き手の思考におよぼす心理的な効果である。「だ調」や「ですます調」は、情緒的な主観表現や検証ぬきの憶測になじみやすい。書き手は、直前の文章を無意識にフィードバックしながら次の文章を書くため、自分が少し前に書いた「だ調」や「ですます調」にもかなり影響される。首尾一貫して「である調」を使うだけで、論拠のない意見がもぐりこむのをある程度防げる。
「である調」はエラそうに聞こえるという感想を学生から聞くことが増えた。その通り。「誰が考えてもこうならざるをえない」という論証をする以上、実際にエラいことを書く責任を負うのである。文体だけエラくなさそうに見せるのは卑怯かもしれない、と考えてほしい。
文末の問題と深く関わるのが、だれに読ませるつもりで書くか、という悩ましい問題である。授業の課題であればもちろん教師が読むのだが、レポートが教師への私的なメッセージではないことは言うまでもない(レポートに限らず、公的な文章に個人的なメッセージを添えたいばあいは、べつに添え状を付ければよい)。
こうした意味で、レポートは公的な性格を持つ。学生がレポートで述べることはふつう教師にとっては既知のことがらだが、「私の結論は○○です。理由は先生もご存じのとおりです」としたのでは論証にならない。「誰が考えてもこうならざるをえない」と主張する以上、(心意気としては)「誰が読んでも説得できるはずだ」という態度で、大勢に読ませる前提のもとに書かなければならない。論証は書き手と読み手のたんなる個人的意見を超える。この意味で、レポートは公的な性格を持つのである。
だからといって、逆に何も知らない子どもに教えるように書くのも、論証にふさわしくない。さしあたりレポートの読み手には、同じ科目を履修するほかの学生に通じる程度の予備知識を期待してよい。知らなかったのは書き手本人だけというような当たり前すぎる知識を連ねてはならない。
レポートを幼稚な「お勉強の証拠」に終わらせないために、論証の三要素を整え、公的な性格を備えることは欠かせないのである。