初心者がいたずらに文を長くする箇所には、よく見られる表現のパタンがある。まず書き上げた原稿のなかに、こうした症状が見られないかを探し、文を練り直す。これを繰りかえすうちに原稿を書いている時点で症状に気づくようになり、さらによく身につけば初めから意識せず無駄のない原稿が書けるようになる。
以下に、症状ごとに手直しした例を挙げて説明する。
a.同じことばのくり返し(redundancy)
前後2〜3行に同じ単語が2度も3度も出てくるぱあい、余分な重なりを減らす工夫が必要である。他人の文章ならば一目で気づく冗長な表現も、考えながら書いたままの自分の文ではかならず見逃す。だがこの種の問題は「同じことばが出てこないだろうか」と眼をむいて探さなくても、音読するだけで見つかるものである。逆に言えばそれだけに、単純なことばの繰り返しは読者に嫌われる。
【例1】同じことぱのくり返しを減らす アメリカ合衆国は近年中東の民主化を掲げてきたが、2010年末のチュニジアに始まったアラブ世界の民主化を支援することには消極的である。このような中東民主化への消極的姿勢を見れば、2003年のイラク戦争のさいアメリカ合衆国が独裁者を排除するとして、中東民主化を掲げたのが、この戦争の本当の理由ではなかったことは明らかである。 |
ことばの重複を減らすことで、一つ一つの文が短くなる。推敲前の文章ではなかなか伝わらなかった、この主張の単純さもハッキリした(論理が明快になったために、書き手はこの論証の弱点に気づくかもしれない)。
ことばそのもののほか、意味の重複にも注意が必要である。たとえば「朝日が東の空に顔を出した」という当たり前の表現も、文学作品以外では冗長かもしれない。日の出は「朝」以外の時間、「東」の「空」以外の場所にはありえないからである。「はっきり断定する」厂〜でありうる可能性」「〜かもしれないという推測」などという表現は、「白い白馬」と変わらず、ことばの基本的な感覚を疑われかねない。「被害を受ける」「提案を示す」などという表現は、放送メディアもチェックしなくなりつつあるが、書きことばとしては避けたいものである。
b.簡潔さを損なう表現(「〜を行う」「〜こと」「〜という」「〜なの」など)
ふだんよく使う表現には、レポートから締まりを奪うことばが潜んでいる。字数を減らすばかりでなく、むしろ簡潔さを増すために摘み取りたい。
【例2】 簡潔さを損なう表現を削る (a)以下の3点について検証を行う(〜を実施する、を実行する、を実現する) (b)事前にこうした批判を排除することが必要である(〜るもの) (c)メインバンクとして支援するという責任を、確認するという狙いがある (d)近代小説は本質的に物語なのではなく、虚構なのである |
声に出して読んでほしい。いずれも数文字しか減っていないが、字数以上に簡潔になった印象を受けるはずである。無意味なことばがいかに読みやすさを損なうかが分かるだろう。特に(a)では目的語を示す助詞「〜を」が本来の目的語「以下の3点」の後に移動し、(b)では目的語がひとつ減ったことに注意したい。文の成分をいたずらに増やさないだけで、読み手にかける負担が減らせる。短ければまだしも、長い文章でこの種の問題を放置すれば、読み手の集中力を奪う。またこうした表現を削っても、ほとんどのばあい失われるニュアンスはない。
c.特別な意図があるぱあいだけ使うべき表現(「〜のである」「〜ている」など)
同様にふだんよく使うが、レポートで濫用すべきでない表現にも目をつけたい。注意ぶかい書き手であれば特別なニュアンスを込めるばあいだけに使うことばを、場所を選ばずに使うと、締まりのない、幼稚な文章と見られかねない。
【例3】 特別なニュアンスを込めないなら使うべきでない表現を削る (a)スミスはプルトニウムの化学毒性を重視している (b)今日の民主主義がルソーの本意ではない可能性が、依然として残るのである |
字数を削る効果は小さいが、いずれも歯切れがよくなるのが分かるだろう。文例(a)の「〜ている」「〜ていた」は、レポート界の初心者マークである。「今まさに〜ている」「まだ〜ている」「すでに〜ている」という「相」(完了や進行)のニュアンスを示す意図がないなら、削るべきである。文例(b)の「〜のである」は断定の度合いを強める。文例のように内容上じゅうぶん断定的な文章に、さらに「〜のである」を重ねる必要はない。なお、段落をまとめるような重みのあるセンテンスだけで「〜のである」を使い、そのほかの箇所では削るだけで、それなりにメッセージの強い段落になることも多い(「である」調を使いこなせるまでは、文末が軒並み「〜のである」となり、誰しも途方に暮れる。このとき「〜にほかならない」を用いると、断定の度合いを強めたい箇所で否定形の文末を使える)。
d.不必要な主観的ニュアンスを生む表現(「〜てしまう」「〜てくれる」など)
やはりふだんよく使うが、手慣れた書き手はまず論文で使わない主観的表現がいくつかある。これも文章を幼稚に見せるので、徹底的に削りたい。
【例4】 主観的なニュアンスを生む表現を削る (a)民主党は子ども手当を選挙公約に掲げ、財源を浪費してしまった (b)産業革命以前の生活様式は、環境負荷を抑える道筋を示してくれる |
いずれも主観的なため、論文では原則として使わない。「浪費して残念だ」「道筋を示すのでありがたい」という感想は読み手に委ねるべきである。こうした表現を使わなくても、論旨さえ明快なら、それは読み手におのずから伝わる。
同様の理由から、数量を示すさいに「〜にのぼる」「〜に達する」「〜にすぎな い」「〜にとどまる」「わずか〜」「〜だけ」などという表現についても、書き手 の主観的判断をさしはさむ必要があるか、よく考えるべきである。
e.不必要な受動表現・使役表現(「〜される」「〜させる」)
受動表現(受け身)は自然な日本語の文章表現に欠かせず、無理に削る必要はな い。ただし動作主(意味上の主語)があいまいになるため、文意がつかみづらくな るばあいもある。使役表現は受動表現以上に不必要な箇所に現れがちである。
【例5】 無意味な受動・使役表現を削る (a)介護を受ける人びとの生活の質を改善させる手だてと言える (b)佐藤によれば、1時間に節約される電力は25万キロワットと試算される (c)事故調査における免責によりもたらされるモラルハザードが指摘される |
だれしも読書のさい、すんなり文意が通じず、読み返しを強いられる経験がある。 そうした文章には、不必要な受動や使役の表現が多い。(a)や(b)では、誰が改善し、節約するのかが明らかであるなら(あるいは論証上意味をもたないなら)、 改善「する」、節約「する」という能動態でじゅうぶんである。(b)や(c)では、 人名を主語とする能動態にすることで、学説を主張する(「試算」したり「指摘」したりする)主体を明示できるうえ、文としてもかなりスッキリする。
大学生のレポートを添削すると、以上のような表現をよく目にする。書きぐせ になる前に、問題表現のチェックリストを作り、しらみつぶしにしたい。なぜな らこうした表現を解消しないと、より複雑な問題点がなかなか見つからないから である。ワードプロセッサの検索機能により、こうした表現はかんたんに洗い出 せる。この目的で検索機能を使うことは、じつは論文を書くプロにも多い。