【コラムK】パラグラフと段落(外山滋比古)

外山滋比古
 (お茶の水女子大学名誉教授)

 かつて同僚にルイスさんというアメリカ人がいた。奥さんが日本人で日本語が達者である。日本文を英訳する演習を担当していた。ある日、そのルイスさんが浮かぬ顔をしている。
 訊いてみると、いくら言っても学生がパラグラフを理解しない。一パラグラフを勝手に二つに分けたり、二つを一つにしたりする、という。
 それはルイスさんの責任ではない。学生だけでなく日本人は一般にパラグラフの観念がうすいのだ、などと言ってなぐさめた。
 「源氏物語」から西鶴まで日本文学の作品に段落がない。いまの版本にあるのはあとでつけたのである。
 明治のはじめ欧米のことばに接して日本人のおどろいたことの一つがパラグラフだった。これを段落として最初にとり入れたのは文部省の国定教科書だった。明治36(1903)年のことである。改行したら1字下げて書き始める形式は伝えられたが、普及には手間どった。
 先年、ある大学院の学生が日本語の段落をテーマに修士論文を書こうとした。各新聞の社説を中心に段落の構造を明らかにしようとしたのだが、失敗に終る。
 往年の大学入試には英文和訳がつきものだった。一パラグラフの英文を訳すのだが、段落の仕組みのわからない受験生を苦しめたものである。センテンスを訳していけばいいという考えではパラグラフの真意はとらえにくい。
 いまの日本の文章にはみな段落がついているが、欧文のパラグラフとは大き<異なる。あえて言うなら、英文のパラグラフはレンガ、日本語の段落はトウフのようなものだ。形は似ていても、その内容は違う。レンガは積み重ねればいくらでも長大になりうるけれどもトウフは重ねると崩れる。このトウフをすこし固くできれば、日本語に新しい知的活力が加わるだろう。果して語と文中心の考えを脱却できるか。

 『日本経済新聞』2010/11/14・朝刊(P-36)より転載
(引用者注:年号などの表記は算用数字に改めた)