直接引用にせよパラフレーズにせよ、資料を取り上げるさいに区別すべきなのが、一次資料と二次資料である。一次資料とはレポートや論文のおもな検討対象となる資料の遡れるかぎりのオリジナルのことであり、ニ次資料とは一次資料についての第三者のことばである。一次資料そのものについての議論がテーマとなるレボートでは、当然資料そのものをたっぷり直接引用しなければならないことが多い。一方、ニ次資料をダラダラ引用することは、自分の思索とことばをレポートから減らすだけであり、どんなばあいでも避けるべきである。 何を一次資料と見なすかは、研究の性質や論文執筆者のレベル、また研究分野により変化する。
一次資料の例 |
二次資料の例 |
W.Shakespeare,Macbeth,1623 |
→坪内逍遥訳『マクベス』(沙翁全集版) |
〃 |
→英文学者による『マクベス」の作品論 |
アリストテしス『霊魂論」 |
→『霊魂論』の注解や研究書 |
親鸞真跡『教行信證」(東本願寺蔵) |
→金子大栄校訂『教行信証」(岩波文庫) |
社会調査実施機関が発表したデータ |
→研究者によるその分析 |
独自の実験調査に基づく科学論文 |
→その科学論文への第三者による言及 |
何はともあれ大原則は、原典だけが一次資料である、という点である。たとえばシェイクスビア研究者が邦訳だけを読んで『マクベス』を論ずることはありえない。翻訳者の解釈やまちがいに結論が左右されては「シェイクスビア研究」にならないからである。学部生のレポートではどうだろう。英文学の学部生に『マクベス』を邦訳から論じることを許すかは、今日では担当教員次第だろう。ただし例えばアリストテレスの『霊魂論』となると、ギリシア語原典を引いた議論しか認めない大学が日本にいくつ残っているか、多少こころもとない。 ただし一次資料そのものを論ずるさいには二次責料と見なされる翻訳や解説が、別の議論では一次資料として扱われるばあいもある。たとえば坪内逍遥訳『マクベス』は近代日本文学の研究者にとっては立派な一次資料であり、12世紀のアヴェロ工スによる『霊魂論』注解は、中世思想やイスラム哲学の研究者にとっては好個の一次資料である。 校訂(写本にもとづくテクストー字一句の確定作業)も翻訳と同じく、結論を一変させる。原典こそ一次資料ということは、校訂についても言えるのである。たとえば『教行信証』にはいくつかの写本が知られるが、その大もとにあたる原典は東本願寺の親鸞直筆本である。とはいえ専門家も(本文校訂の問題をのぞき)ふつうはいくつかの現代校訂テクストをもちいて議論する。現代校訂本は原典にごく忠実であり、時代的により原典にちかい近代以前の写本にくらベ、はるかに一次資料として扱うにふさわしいからである。 自然科学などの実証科学分野では、調査や実験の当事者による報告を一次資料と呼び、その紹介や分析を二次資料とするばあいが多い。また情報学など一部の分野では、文献索引・論文データベースなどを典型的な二次資料ととらえる。 一次資料・ニ次資料の区別は、このとおり多少ややこしいが、分野によっては卒業論文などの長めの論文で、参考文献を一次資料とニ次資料に分けて示すよう求められるばあいもある。 さしあたりレポートや論文では「孫引き」(引用からの引用)を避けることが大切である。たとえ単語ひとつであっても、他人が介在する引用解釈(翻訳)からではなく、本人のことばであると信頼できる資料(あるいは担当教員が認める資料)に当たって引用すること。 なお一次資料としてあつかう情報を、(入手困難など)やむを得ない事情で二次資料から引用しなければならないばあい、そのことを注などにハッキリと断っておかなければならない。さもないと剽窃と疑われかねないからである。 二次資料のなかの引用は単純な誤写を含むかもしれないし、ニ次資料の主張に沿った意図的な偏りを持つかもしれない。それに気づかず、あたかも原典に当たったかのように一次資料として示すのは、追跡用の発信器がしかけられた現金輸送車を乗り回すようなものである。レポートや論文を審査する教師は、その種の偏りに人並み以上の感度を持ったからこそ、その道のプロになったのである。
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