個人の心情をどれほど巧みに表現したところで、それは客観的な知識や学問にはならず、社会で必要とされる論理的説得にも役立たない。高等学校までのカリキュラムでは、さんざん感想文や体験作文を書かせる一方で、レポートや論文の書き方についてほとんど何も教えない。「わたしはこう感じました」という感性に成績をつけ、世界標準の論証の作法をないがしろにしていると言わなければならない。
レポートとは何かを知らないと、どうマズいのか。「地球温暖化について述べよ」という出題を想定し、感想文的発想に流された失敗例を考えて見よう。
【例1】感想文型の主張
主張a:「温暖化の原因は二酸化炭素だと言われています」
主張b:「わたしは年ごとに猛暑がひどくなっていると思います」
主張c:「人類は環境を守るため生活水準を下げるべきです」
たとえば主張aは、論拠とする情報の出所が確認できないため、信頼できない。主張bは、客観的な論拠を示さず、正しいか正しくないか確かめようがない(妥当性を検証も反証もできない)印象にすぎない。主張cは客観的に反証できない内容を個人の規範的な信念(「~べきだ」という主張)として示す。その上この主張は「地球温暖化について述べよ」という課題の範囲を超える。このような感想文調で思いつきを書き連ねても、レポートにはならない。
客観的論証が「わたしは~と思う」という表現をとることはありえない。推測の意味を込めたいなら、はっきりと「~と推測される」「~である可能性がある」と述べるべきである(最悪でも「~と思われる」として、たんなる個人の印象ではないことを示すべきである)。
【ポイント1】『論証』となっているかのチェックポイント
- 正しさ(妥当性)を確かめられる問いをたてたか
- 客観的な論拠にもとづいており、なおかつ適切に出所を示したか
- 課題に即し、議論した内容にもとづく答え(結論)を得たか
論証とは「問い」「論拠」「答え」という3つの要素をそなえ、「誰が考えてもこうならざるをえない」という結論を唱えて、読み手を論理的に説得することを目ざす議論である。古代の哲学から最新の遺伝子科学まで、西洋の学問的知識はこの作法にしたがって示され、チェックされてきた。「学問」や「知識」とは、ひらたく言えばこの作法で書かれたものの蓄積にほかならない。
「問い」「論拠」「答え」の三要素のどれが欠けても論証とならず、レポートや論文とは見なされない。まず必要なものは、具体的な「問い」である。その問いを何かしらの「論拠」にもとづいて吟味しなくてはならない。こうした吟味によって問いに即した「答え」を出す一連の議論を「論証」と呼ぶ。日本の大学では論証のスケールが比較的小さい学期末課題などを「レポート」と、卒業論文など大きめのものを「論文」と呼ぶことが多い(論文は広い範囲に公開される公的な文書、レポートは読み手が限定されるやや私的な文書、というニュアンスもある)。