3.学習者の助言

 以下の各節で具体的なスキルについて説明する前に、学習方法のヒントとしてい くつか助言しておきたい。

【ポイント3】学習者への3つの助言

  • 感想文や情緒作文で好まれる技術はレポートでは好ましくない
  • 書きたいことを書く前に、論証の「型」を身につける
  • 自分の名前で文章を発表する責任を忘れない

a.「感想文」「体験作文」のテクニックは忘れる

 第一に、高等学校までの国語で致えられた感想文や情緒作文のテクニックが、レ ポートに通用すると考えてはならない。何も考えず感想文式に書くと、論証の基本原則にことごとく反した、意味不明のレポートを提出することになる。このハンドブックを用いる論文書法科目「アカデミックリテラシー1」のばあい、高等学校までの作文教育で教えるスキルのうち必ず取り上げるのは、段落の最初をひとマス空けるというルールだけである。格助詞(てにをは)の使い方や主語と述語の呼応など、国語力の範囲の問題も見られるが、これらは作文教育以前の課題と考えなければならない。

  高等学校までの作文でよい評価をえたと思われる学生が、このハンドブックで教えるスタイルにとまどい、反発する例もしばしば見られる。だが自動車の運転を学ぶさいに自転車のこぎ方にこだわるようでは、得られるものも得られない。

 もっとも、作文優等生がとまどうのも本人の責任ではなく、明治時代以来の学校作文の大きな欠落のせいである。このハンドプックが教えるスキルのいくつかは、日本の大学生にとって初耳であるだけでなく、おそらく国語の先生の多くにとっても教えたことのないものだろう。日本の学校教育が論証をないがしろにしてきたことについて、現場の先生がたを一方的に責めるのは酷である。日本は世界標準の学問の歴史から見れば、まだまだ新参者である。外山滋比古や鶴見俊輔が近年指摘するとおり,明治以来の努力にもかかわらず、日本語そのものが論証のための万人向きのスタイルをまだ確立していないのである。【→コラムK】

 b.「型」を身につける

 第二の助言は、書きたいことを書く前にまず、どのように書くかを知る、ということである。スポーツや楽器演奏の手ほどきを考えれば分かるが、型にはめるような単調な練習を通り抜けてはじめて、一人ひとりの良さを活かしたスタイルが生まれる。

 このハンドブックが教えるスキルは、パス練習や音階練習のような型を身につけるための基本である。このことに対して「書きたいことが書けない」「考え方を押しつけられる」という不満をもつのは、大学生なら当然である。履修者が「書く技術が上がれば教科書どおりの書き方を捨ててもよさそうだ」と感じるならむしろ書き手として前途有望というしるしと言える。とはいえ「型やぶリ」はいったん型 を身につけた者が見せてこそ強く美しいのであり、型を知らずにそれを求めれば、でたらめに終わる。基礎練習なしでは試合にに勝てないのと同じ道理である。

 標準的な型を身につければ、見通しと自信が得られる。なるはど、運が良ければでたらめな書き方でも一度はまずまずのものが書けるかもしれないが、別の課題で同じやりかたが通用するとは限らない。毎回思いつきを書きつらねるということは、思いつくまで毎回先の見えない苦しみを味わうことを意味する。一方、一度型を覚 えれば、課題の内容に応じ、どの様に問題を限定し、どのレベルの資料を読み、何件ほど引用し、段落いくつ程度の主張を用意し、どのような反論に備え、執筆と推敲に何時間ぐらいかかるのか、というおよその見通しが立つようになる。このハン ドブックから学んで得られる自信と、ただ長いレポートを書いたことがあるという自信では質が異なると言える。

c.自分の名前を惜しむ

 最後の助言は、レポートに自分の名前を記す重みを知る、ということである。

 ひとつの文書に自分の名前をつけて公にするということは、中身が自分のことばであり、自分のアイディアであると世界に向かって主張することにほかならない。そこに他人のことばや借りてきたアイディアを断リなく潜ませるのは、「剽窃」 (=盗用とうよう)という不正行為である。他人が言っていないことをその人に帰責するのも、引用やデータの「捏造ねつぞう(=でっちあげ)という不正行為である。いずれも学生だからと許されることではない。逆にいえば断ったうえで正確に引用するなら、 他人のことばも堂々と使えるのである。引用、典拠表示、注と参考文献表のつけ方について、このハンドプックもこまかな約束を説明し【→第5節】、担当教員も 口うるさく指導するが、それは公正な引用と不正行為の境界がそれなりにデリケートだからである。

 残念だが、レポートや論文での不正行為により、日本の大学で毎年かなりの学生が、学生としての身分に関わる処分を受けているはずである。インターネット上のテクストが簡単にコビーできるようになり、電子メールによる文書ファイルのやりとりが一般化し、不正はさらに身近になった。言うまでもなく、どれほど手軽であっても、他人のことばに自分の名前をつけて発表すれば、試験での不正行為と同種のペナルティを受けることになる。

 レポートでの「コピペ」の横行について、メディアは学生の品性が落ちたかのようにとりあげるが、「引用って何?」という状態で高校を出た大学生に、教師はまず剽窃を避ける道を教えるべきだろう。「アカデミックリテラシー1」という科目も、このハンドブックもそのような考え方から作られた。不正を見すごし、剽窃は許されるというメッセージを学生に送るつもりの教員はいない。またこの授業を履修した学生には今後、不正に当たるとは知らなかったと、言いわけもできない。

 最悪のばあい、他人のことばを自分の名前で発表するよりは努力したが書けなかったと認める方がよい選択である。ウソによる報酬を得ず真実のコストを払えるかというテストは、死ぬまでひとについて回るのである。

 もっともこの科目を履修した学生の大半はそれなりに苦しみつつも、自力でレポートが書けるようになる。レポートが書けなかったらどうしよう、という心配とは無縁になるはずである。