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可能性への挑戦 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (完)四、ザルツブルグ留学(続) レーディッヒとの出会い 人は、その生涯において、人生の展開に決定的な関わりを持つような人と何人か出会うものである。ユルゲン・レーディッヒは私にとってそのような人の一人であった。交際し得た期間は非常に短かったけれども。レーディッヒは、ギーセン大学の法学部の民法、民事訴訟法・法理論および法情報学教室を主宰する、当時三十二歳の青年教授であった。私は、彼の論文を翻訳してみ、彼の優秀さを知り、法学の未来が彼にあることを信じて、ドイツ留学を彼のもとでやりたいと考えていたのである。 私がライン河畔の町レーマーゲンに着いたのは午後三時半頃であった。旅客たちの間を縫って気ぜわしげに来る男が私の目に止まった。レーディッヒだ、と直感した。ドイツ人としては比較的小柄で、どことなく神経質そうな、しかし目は鷹のように鋭い。
彼の家は、塔が三つもある三階建ての大邸宅で、二百年くらい前の建築。敷地はライン川の河岸から山の頂上まで何千坪あるかちょっと見当がつかない。彼の緑の「領地」の中を二人で散歩しつつ、法論理学の諸問題について意見交換をした。彼の頭の回転の速さ、その剃刀のような切れ味、判断の正確さに私は強い感銘を受けた。 夜、彼の言葉によると「あなたのご訪問の歓迎パーティ」が招待客を加えて庭で開かれた。大きく湾曲するライン河を見下ろす庭の一角で、焼ソーセージとライン・ワインを賞味しつつ深夜にいたるまで語り合った。はずんでいた会話をレーディッヒが遮って、みんなの注意を喚起して言った。「ほら、見たまえ、『ローレライ』だ!あれはラインの観光船では一番大きいんだ」。眼下の暗黒のラインの川面を、華麗な満艦飾のイルミネーションをした汽船が静かに下っていった。このような美しい夜景を下に見ながら、ライン・ワインを傾け、法律につき、政治につき、文学につき、歴史につき、経済につき、そして世界の運命につき、時の経つのも忘れて語り合い続けるのは、この世のものとも思われぬ最高の贅沢であった。 ボンの学会での再会 私がまだザルツブルグに居をおいていた九月末、ボン郊外のビルリングホーフェン城で立法理論の国際セミナーが開かれた。このセミナーはレーディッヒ指導の下に開かれたもので、ドイツ連邦政府の全面的な財政援助の下に成立した。法律学をして、単なる解釈学の枠を超えて、科学としての立法理論へと新たなる展開を為さしめることを意図し、ドイツ内外から四十五名の学者・実務家を招待して二週間にわたって行なわれた画期的なセミナーであった。私にも本学法学部教授竹内保雄先生と共同で、報告をする機会が与えられた。その準備と労苦と精神的負担とは大変であったけれども、無事終ってみると、学会報告したことは、日本の法律学を世界へ輸出するという「可能性への挑戦」の一つの試みを意味し、将来の展望を一歩開くものとなった。このセミナーで、私はレーディッヒの、単に学問の優秀さにとどまらない、その企画力、行動力、その考えと意欲のスケールの大きさに圧倒された。彼を見ていて、人の未来は、いかに大きく意欲するか、すなわち、いかに「大」志を抱くかにかかっていることを教えられた。 五、ギーセン留学 レーディッヒと共に 一九七五年十月十六日、私はザルツブルグを離れギーセンに移った。ギーセンはヘッセン州のほぼ中央に位置し、フランクフルトの北五十キロにある人口十万程度の大学町である。私は彼の研究所内に一室を与えられ、彼の法論理学の講義と立法理論のセミナーに参加しつつ、自己の研究課題に取り組んだ。 ギーセン到着後三日目に、レーディッヒは、再び彼の言葉によると「貴方の歓迎のパイプオルガン演奏会」を催してくれた。当日彼が演奏したものに、ある讃美歌をテーマとした彼自身による変奏曲があった。これは実に見事で、素人の作とはとても思えなかった。私は、彼の音楽方面での才能にも驚嘆した。しかし、後で知ったが、この曲のもとになった讃美歌は、死者の葬いの為のものである。彼は無意識のうちにその運命を予知し、自分自身の葬いの為に演奏したのである。演奏中の彼を、写真に撮ったが、そこに写っている彼の顔は壮絶というか、妖気と死相の漂うものであった。 私はギーセン到着一ヵ月後、オーストリアのグラーツ大学にオタ・ワインベルガ―を訪れる旅に出た。レーディッヒと彼の間に法論理学の方法について有名な論争があり、ワインベルガ―の見解を、彼自身の口から直接聞き、また議論もしてみて、この論争に私自身の最終決着をつけたいと思ったからである。 この訪問の結果は喜ばしかった。ワインベルガ―との二時間余の議論で得た私の結論はレーディッヒの主張の方が正しいということ、レーディッヒの方が優秀で未来があることであった。確かに法律学の未来も彼と共にあると確信した。 だからギーセンでの帰路、明日から再び始まる彼と共にする研究生活、今後何十年も続くであろう学問的協力関係を思って期待と喜びに私の胸はいっぱいであった。私はインターシティ(大都市間の豪華超特急)の食堂車で、知り合った金髪の麗人と共に上質のコニャックをかたむけていた。この溢れ出る喜びと期待とを、私は彼女に語らずにはおれなかった。彼女は美しい微笑をもって聞き続けてくれた。楽しかった。私の人生で最も美しい時間の一つだな、と思った。その時たまたま乗り合わせていたギーセン大学の刑法のトリフタ―教授から、告げ知らされた。「レーディッヒは死んだ!」。私の受けた衝撃は筆舌につくし難い。 レーディッヒとの別れ ギーセンに帰ると、彼の愛人が私を訪ねて来た。彼女は音楽学部の四年生で、ダーク・ブロンドの緑色の目をした美人である。レーマーゲンで行なわれるレーディッヒの葬式に連れていて欲しいとのこと。ギーセンとレーマーゲンは六十キロ余離れており、教授たちも大学のバスで葬儀に行くのである。義を見てせざるは勇なきなり。私は彼女を連れて行った。 墓穴におろされたレーディッヒの棺を見て私は思った。彼に意識があるならば、墓穴の底から上を睨んで歯ぎしりしているに違いない、彼の学問と人生における広大なる計画が、ようやく実現し始めたばかりであるというのに、死なねばならぬとは。 帰路・バスは黄昏の中をドイツ平原のゆるやかな起伏の中を走っていた。隣の彼女は私に言った。「彼の講義を引き受けてはどう?」。そしてまた、しばらくしてから言った。「私が葬儀に出たかったのは実はあなたと一緒になりたかったからよ」。何たることか!向かうところ敵なしであった不可能という言葉を知らぬかに見えたレーディッヒは、もはや墓穴に横たわり腐敗を待つのみ。一方私はこうして生きて、暮れゆくドイツ平原を見、彼の愛人と並んで走っている。そして彼女の心は既に私に向けられている。まことに事実は小説よりも奇なりだ。 彼が意識を持っていたら感じたであろう無念さが、私に痛いほど伝わってきた。私も、無念であった。彼の死によって打ち砕かれたかにみえる数学的論理学による法律学の革新を思った。残された生徒たちを思った。彼の死の悲しみを乗り越えなければならない。不肖私が彼の志を引き継ぎ、彼にかわって、及ばずながらその実現に努力しよう、と決意した。彼の学問上の偉大なる課題を、できる範囲内で、引き受けよう。彼の講義とセミナーも引き受けよう、と。ついでにこの女性も引き受けようか?くわばら、くわばら。 こうして、私のさらに新たなる「可能性への挑戦」が始まったのである。 白金通信 第116号掲載 |
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