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可能性への挑戦 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (完)五、ギーセン留学(続) ギーセン大学での講義 レーディッヒ教授の突然の死は、私の留学生活を大きく変えた。彼が交通事故死した一九七五年の冬学期、彼が担当していた科目のうち法論理学の講義と立法理論のゼミナールとを私が引き継ぐこととなったのである。 私がドイツへ入ってから一ヶ月半、日本を出発してからもまだ、八ヶ月経っていなかった。私のドイツ語の能力は十分ではなかった。ドイツの大学で講義する計画は出発前から持っていたが、在外研究の最終段階に予定していたのであって、この時期ではなかった。それにもかかわらず、私がこの時点で大役を引き受けることにしたのは、第一にレーディッヒによって掲げられて、しかし、彼の死によって消えてしまってはならない数学的論理学の適用による法律学の革新という目標のことを、第二に残された生徒達のことを思ったからである。義をみてせざるは、勇なきなりである。それに、講義とその準備を通じて自己の学問をドイツ語で展開する能力がつき、そしてそれは間国家的レベルで研究成果を発表していくという今回の留学の目標の一つの成就を早めるのに役立つ、という判断もあったことも否定できない。要は、私は、運命が私に与えた挑戦から逃げたくなかったのである。 新しい仕事、新しい企画を首尾よく成功させるためには多くの困難と労苦が伴うものである。しかし、それを恐れ、尻込みしていては飛躍というものはありえない。とはいうものの、この場合私の負った精神的、肉体的負担は非常に大きかった。 まず精神的重圧が加わった。大変インテリに見えるドイツ人の大学生を前にして講義をすることなど、自分には空恐しい気がした。第一、果たして学生が私の講義を聞きにに来てくれるかどうか。仮に何人か来てくれたとしても、すぐ皆いなくなってしまうのではあるまいか。ドイツの大学生は単位制度に縛られていないので、興味の湧かない講義などさっさとおさらばする。ザルツブルグ大学で、イタリア人の訪問教授が講義をしたところ、二週間で学生が全くいなくなってしまったという。そんなことになったら、どうしよう。私は、笑い者、日本人の恥さらしとなる。引き受けたことを何度悔いたかわからない。 そのような不安の中で私を支えてくれたのは、次の三つの認識であった。一、引き受けたからにはやり遂げるほかない。日本人の名誉にかけても成功するしかない。二、日本人は本質的には優秀である。日本で通用したからにはドイツでも、十分通用するはずである。三、学園紛争の最中、銀ヘル、白マスク、白装束に鉄パイプの諸君に対抗して六二一番、六二四教室で籠城して期末試験を貫徹した時のことを思えば、これはたいしたことではない。仮に万一失敗しても、生命の危険があるわけではないではないか。以上のような認識にたち至ったとき、私の腹はすわった。 最初の講義の際、研究室から出て、庭を通って、教室に入るまでの間が、不安と緊張のクライマックスであった。教室―それはちょうど六二一番のような階段教室であった―に入り、講壇の上に立ち、大勢の学生諸君を前にしたとき、しかし、あたかも古巣に帰ってきたような気がして、心の底から喜びと自信と笑みが浮かんできた。自分もいつの間にかプロの教師になったものだなあ、ちょっとおかしかった。 講義の冒頭、私は、レーディッヒとその業績に触れ、彼の掲げた数学的論理学による法律学の革新という偉大な目標は、決して彼の死によっては消えてしまってはならぬことを説き、宣言した。「松明は受け継がれた!」 決意と心意気を披露することはたやすい。しかし、その後でそれを実現させるための努力が伴わなければならない。私は、この「可能性への挑戦」を成功に導くために、ここでも一つの目当てに身を捨てきることにしたのである。
ギーセンの冬は夜半を過ぎると零下十五度を超す寒さのときがある。満天の星の下、凍てついた雪道を宿舎に急ぐと、零下十六度の冷気が身を刺し通す。しかし、心は燃えていた。それが寒さを跳ね返すのが感じられた。 こうしてわたしは体力の限界を尽くした。私の心意気と頑張りとを多としてくれたのであろう、学生達は最後まで私の授業に留まり、私を支援してくれた。冬学期は二月に終わる。最後の講義が終了したとき、学生達は、一際力強く拳骨で机を敲き続けてくれた―ドイツの大学では講義や講演の終わりに、聴衆はその満足と感謝の意を表すために、拍手のかわりに、こうするのである。感謝の気持ちを表明したいのは私の方だと思った。熱心な学生諸君に支えられて、私は無事任務を終えることができたのだから。 一つの可能性への挑戦が終わると、次の可能性が開けてくる。そして人の挑戦を待っている。私にとってそれは、続く夏学期、法論理学の上級の講義を試みることであった。前学期に敷いた基盤の上に、その上部構造として、法論理学の掘り下げた新たな展開を行いたいと思ったのである。ギーセン大学法学部学部会議は私の希望を入れ、そのために講義科目を新設してくれた。受講者は減って十二名ばかりであったが、今度もまた、熱心な学生に支えられ、一九七六年六月末まで、充実した法論理学の論究をすることができたのである。 最後まで残った学生は七名であった。最後の講義が終わった後彼らに、講義案を発展せしめて「法論理学要綱」という一冊の本にして当地ドイツで公刊したいという私の夢を語った。「それが完成したら、いの一番に君達に進呈するよ。君達も松明を受け継ぎ私と共に、私を支えて頑張ってくれたのだから。」本はまだ、出来上がらず、この約束はまだ履行できていない。しかし、かならず履行するつもりでいる。 私のギーセン最後の日は七月三日ではなかったかと思う。まだ、夏休暇に出ていかず大学にいたすべての法学部の教授を昼食に招待し、一席を設けてお世話になったことに対する感謝の意を表した。その他の、ご恩を受けたギーセンの人々には、駅前の花屋で謝意を書いたカードをつけて鉢花を送った。そして汽車でギーセンを後にし、更に新たなる可能性に挑戦すべく、後の留学地ミュンヘンに向かったのである。 白金通信 第117号掲載 |
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